知らない子どもと上手に遊ぶ方法

子供の通っている小学校に学校公開でたまに行ったりすると、僕の周りには数名の子供が集まってきて、囲まれることがある。

もちろん、いつもではない。

そして、集まってくるのは何十人もの大規模集団でもない。

けれども、こちらから「楽しい話しをしてあげるからおいでおいで」なんて声をかけることはしていない。

そういうときには、自分の子供が必ず私のそばにいる、という訳でもない。むしろ、どうしたの?って感じで後から集団に参加してくることの方が多い。

なのに、なぜ。

子供と話しをするときは目線を合わせて。
なんてことは、世間で良く言われる。

しかし、目線の高さを子供と同じラインに合わせるだけではダメだ。

もともと、人は、教えたがりなのだと思う。

気づくと僕は、教室の床に膝をついて座っていることが多い。
そして、そのそばにある図書や子供達が図工の時間でつくったであろう作品なんかを見ている。

自己紹介の絵、夏休みの宿題、お習字の発表。

教室の中は、どこを見ても、興味深いものばかり。

小学校低学年の背丈からすると、この時の僕の目線は、彼ら彼女らの下にある。

小学校の社会の縦軸は、一年生から六年生までの年次。

どこの小学校でもそうだと思うが、上級生は下級生のお世話をする、そういったプログラムが設定されている。

小学校低学年にとって、世話をしてくれる高学年は大抵の場合、身体が大きく、目線ははるか上だ。

体感的に理解しているのだと思う、身体が大きくて上から見下ろしてくる人間は、自分より上位なのだと。
(これは子供から聞いた話しだから間違いない)




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【レーシックに頼らない視力回復】
「社会の中の自分」、なんてことを理解するまでもなく、彼ら彼女らは学校という社会の内部の人間であり、僕は外部の人間。

目線のラインが下にある外部者である僕に対して、彼ら彼女らは一生懸命に教えてくれる。

その社会の内部のことを。

「この本、私このまえ読んだ」
「これ、私が作ったの」
「教室の外にもあるよ」
「夏休みに軽井沢に行ったから」
「弟が生まれてね」

そこから生まれるコミニュケーション。

これこそが始まり。

同じタイミングでしゃべってくる子供達の複数の問いかけに対して、ちゃんと応対すると、子供達はその場を離れない。
そして、遠巻きに見ていた他の子供達も集まってくる。

あとは会話を愉しんでいれば、あっという間に休み時間が終わってしまう。

いま、これを書いていて思った。
こうなることって、ホントに多い。

裁判の判例の「事案限定」と同じく、今書いたことは教室という「場」限定のことだとは思います。
その教室にいる外部者である僕は、生徒達の親であろうことからくる安心感などというものも関係しているでしょうし。
路上でしゃがんで周囲を物色してるからって子供達が集まってくることは通常考えられないですもんね。